(日文 삼성시리즈) “인재가 만사”…사업으로 국가에 보답하다

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입력 2010-01-29 09:57
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(日文サムスン特集)「人材が万事」…事業で国家に報いる…

「日本に松下幸之助がいるなら、韓国には李秉喆がいる!」
“일본에 마쓰시타 고노스케가 있다면 한국에는 이병철이 있다!”

日本で、「経営の神」と崇拝されている松下幸之助は、電子製品ブランド「ナショナル(National)」「パナソニック(Pnasonic)」などで良く知られている松下電器産業(現パナソニック)の創業者だ。

彼は、当時職員に対する配慮に遠慮がちな日本の企業とは違い、福利厚生に心血を注いだ。特に、「終身雇用」の概念を始めて投入した。年功序列など近代日本企業の人事制度の定着も、彼の作品だ。

経営でも、一歩先を行く戦略を見せている。彼は、早くも週5日勤務制を実施した。また、地域別、製品別に事業を分けて管理する事業部制度を東洋で始めて投入した。

その結果、松下幸之助は無一文から始めて自身の代では松下電器産業を世界的な企業に育て上げた。それだけでなく、敗戦以降の日本が経済大国に跳躍した礎の役割を担った。

色々な部分でサムスン創業者の湖巖(ホアム)・李秉喆(イ・ビョンチョル)先代会長は、松下幸之助と同じ道を歩み、サムスンをグローバル一流企業に成長させた。

ホアムは、「人材第一」を一番重要な経営原則としてきた。大韓民国で初めて、公開採用制度を導入したのもサムスンだ。

1954年、完工した第一毛織(ジェイル・モジック)工場には、寄宿舎を建てた。当時、韓国の経営環境では創造すら難しいことだった。職を探し、都心に移動した田舎出身の女工達の安息の場を提供するためにしたことだ。

韓国戦争後の廃墟と化した韓国を半世紀で経済大国の座に持ち上げたのも、松下幸之助と比較される。

得に、ホアムは「事業報国」(事業報国:事業を通して、国家に報いる)と言う言葉を良く使った。植民地時代、国が無いという悲しみを味わった、彼は富強な国を建てるのに一役買いたいと言う信念を守った。

「ホアム自伝」を読むと、事業報国に対するホアムの意思を感じられる。

「私は第一製糖を設立2年で巨豪の称号を受けた。一身の安楽のためには、それで十分だったであろうが…新生祖国に寄与できる新しい事業模索していた」

ジョン・ジュンミョン前サムスン会長秘書室、秘書チーム長も最近、ある月間誌とのインタビューを通し「会長からは常に利益が出てもやってはいけない事業があり、赤字が出てもやるべき事業があると強調した」と述べ、「サムスンは国家的必要性と国民の理解、世界市場の競争の可能性などを判断し、半導体市場に参入した」と当時を回顧した。

現在、韓国経済を引っ張る柱の一つが半導体産業だが、進出当時は政府とメディアなどは、サムスンの半導体事業進出に懸念を抱いていた。それでも、ホアムは国家経済の未来の為に半導体事業進出を強行した。

ホアムは、生前に半導体事業で黒字が出るのを見れなかった。しかし、李健熙 (イ・ゴンヒ)前サムスン会長世代でサムスンはメモリー半導体部門で世界1位に成長、韓国経済を牽引している。

一部では、ホアムが松下幸之助以上の成果を残しているとの評価も出ている。実際にサムスンはその規模や技術面でパナソニックの先を行っている。TV市場でもサムスンは4年連続1位を快走している。携帯電話も1位との差を狭めている。LCDなどディスプレー事業も世界のトップにいる。

このような、サムスンの成長には情報の重要性をいち早く見破ったホアムの洞察力が大きな役割を果たした。ホアムは1960年から亡くなる直前の1987年まで、正月の間は東京に宿泊し事業の構想を練っていた。いわゆる「東京構想」だ。

イ・ギルヒョン前サムスン物産東京支店長の回顧によれば、ホアムは東京で多くの人士と出会い、主に彼らの言葉を傾聴していた。この様な出会いと構想の時間が終わり、ソウルに戻るとサムスンが新しい事業に進出すると言う知らせが東京へと聞こえてきたと言うのが、イ前支店長の証言だ。

情報の中心、文化は全てサムスン全職員に伝播された。あるとき「サムスンの情報力が国家安全企画部(現国家情報局)を超える」とまで言われるほど、サムスンの情報力の凄みを語ってくれるものだ。

これは、半導体事業進出当時、日本のある半導体企業見学に出たあるサムスン電子の人士の証言にも現れている。

「日本企業が技術の流出を懸念し、半導体生産工程の見学以外には、なにも出来なかった。しかし、当時の視察に出たサムスン職員達は、工場で見た図面を覚え、夜宿舎でそれをもう一度書いた。この様な作業がサムスンが半導体技術を習得するのに、大きな助けになり、結局サムスンの半導体技術は日本を越える事が出来た」。

「イ・ビョンチョル経営大全」など、ホアムとサムスンに精通した書籍を多数執筆した作家・ホン・ハサンは「半導体事業進出当時のサムスンは導入可能な全資産を投資した」とし、「この様な資産全体を『フルベティング』できたのは、情報収集を通した半導体産業での成功に対する確信を持っていたからだ」と説明した。

また、「情報収集と分析も重要だったが、これを元に行った果敢な決断に至るまでのホアムは最も優れた情報活用能力をもった経営者だ」との評価をした。

1978年8月25日に開かれた海外事業推進委員会の会議、海外建設・プラント輸出・船舶輸出などサムスンの海外事業を効率的に推進するために、構成された委員会の委員長には李健熙会長(当時、中央日報理事)が選任されており、委員には、サムスン物産・サムスン総合建設・サムスン重工業・サムスン造船・大成重工業・シンウォン開発など、6社社長と秘書室長、企画調整室長などが参加した。

 亜洲経済= 金在桓 記者 kriki@ajnews.co.kr
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